気まぐれ雨模様

思考の整理 過去の記憶 不安の吐き出し 暗い集合体

生まれ変わったら何になろうかな

フィットボクシングを再開した。今のところ3日続いている。そろそろマズイですよって感じです。でもフックをやるたびに肩がゴキャゴキャ鳴るのは楽しい。そんなに固まってる?て思う。肩甲骨回す系のストレッチは一応やってたんだけどやっぱり運動に勝るものはないのかも。フックコンビ2を毎日ひたすらやっている。もう少し身体が慣れたらデイリーとかもやろうかなって思うけど、結構身体がびっくりしてるところだから1週間くらいはこのペースでいいかも…いきなり解れすぎて痛くなるのも嫌だし。運動不足だな〜

 

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発達障害系のエッセイでよくある理解のある彼くんor彼女さん問題、あれ昔は私もそういうエッセイを読んでは「あーはいはい!またこのパターンね!」って思ってたけど、今は別の感情がある。

結局発達障害など生まれながら、あるいは、生きる上で習得した特性を何とかしようなんてモチベーションはそれくらいのものがないと生まれない、あるいは続けられないものなんだと解釈している。

昨今のそういう風潮に対して事前にこのエッセイには理解のある彼くんはいません!て宣伝文句があったりするけど、結局そういう人たちは配偶者ないし恋人がいないだけで、ご家族には恵まれて理解のあるお母さんお父さんが存在している。

というかパートナーあるいは家族が欠けた状態でそこまでアクセスできている本って私は見たことがない。同じような状況で治療中のひとには心当たりがあるけど、じゃあその人が今エッセイを書ける状態か?となれば話は別だ。

そもそも本当の意味で1人で暮らしているのなら、社会生活を営む上での擬態術は必須だけど、それを根本的にどうにかしなくてもいいのでは、と思ってしまう。ギリギリ社会に溶け込むができればどれだけ家が散らかってようが感情がコントロールできてなかろうが問題ない。だって1人だから。

 

自分の認知の異常性に気づいたとき、カウンセリングを受けてみたいと思ったことはある。精神科の受診も。でもどちらもしなかった。結局、それを続けるだけのモチベーションがないことに気づいた。それを治して、それから、どうしたい?ってなったとき、とても生きやすくなるとは私は思えなかった。

安くないお金をかけて病院に行って、経済的にも損失があって、でもそれが本当に改善されるかどうかもわからない。身近に自分の特性で困っているひとがいてそんな人の支えがあるならそりゃ話は変わるだろうけど、そんな人もいない。だから、結局そういうことなんだなって腑に落ちた。

 

だからああいうエッセイに対する独り身の人間の読み方っていうのは、社会生活の擬態術だけを学びとり、もう根治的な話はスルーするっていうのが自分の中の正解になった。理解のある何某が登場したときの落胆する気持ちは今でも分かるけど、結局そういう作品は自分事とは捉えなくなった。

いつか自分自身もひょんなことから人生の宝くじが当たるかもしれない。そうして理解のあるパートナーができるかもしれない。恋愛感情と理解度の前後はともかくとして、自分の境遇や特性に理解があり、なおかつ、支えてくれる、そんな創作物から出てきた人間が現れて、そうして自分と向き合うことを志す瞬間があるかもしれない。案外あっさりそうなって、向こう側にいくのかも。でもそれは今ではない。